| 2014/04/14 | 日本画家幸田春耕は、12月16日心筋こうそくのため京都市の鞍馬口病院で死去した。享年79。本名賢。明治30(1897)年1月15日徳島県名西郡に生れ、大正8(1919)年山元春挙に師事した。昭和9年京都市立絵画専門学校卒業、官展に出品、帝展第9回「軍鶏」、第10回「群鶏」、第15回「睡蓮」などがあり、昭和16年第4回新文展「水禽」、昭和22(1947)年第3回日展「蓮池」、第3回「立木」があり、新日展第1回では「向日葵」、第3回「向日葵」、第4回「睡蓮」などがある。そのほか、紀元2600年奉祝展「蓮」がある。昭和49年無所属となったが、専ら花鳥画を描きつづけた。カトリック教徒。 |
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日本画家川上拙以は、12月3日心筋こうそくのため京都の専売公社病院で死去した。享年75。本名昌薫。明治34(1901)年5月1日愛媛県新居郡に生れ、京都市立絵画専門学校を卒業した。西山翠嶂に師事し、第4回帝展に「淨瑠璃寺」(二曲屏風一隻)が初入選した。ついで第5回「平和」、第6回「浅春余情」、第8回「馬郎婦」、第11回「孟母」(二幅対)、第12回「青葡萄」、第13回「池畔」などがある。昭11年文展招待展には「清風聽声」を出品し、京都市展、大阪市展などにもそれぞれ委員、無鑑査等により出品している。戦後は、第6回日展(1950)に「浦上の廃堂」(出品依嘱)、第9回「姉妹」(出品依嘱)、第12回「斎座」(出品依嘱)などがあり、昭和33年改組後も第1回展(1958)「緑衣の女」(出品依嘱者)、第3回「赤い作業場」などの作品がある。以上のほか所属画塾の塾展青甲社展にも出品し、戦前は風景花鳥を得意としたが、戦後は人物画を多く描いた。 |
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日本画家木村斯光は、11月10日心筋こうそくのため、京都市の鞍馬口病院で死去した。享年81。本名健吉。明治28(1895)年5月9日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校、同絵画専門学校卒業。大正7(1918)年菊池契月に師事した。同10年第3回帝展に「春宵」が初入選し、以後連年入選をつゞけ、第10回展に「牟礼の義経」では特選となり、翌年には無鑑査出品となった。帝展末期の頃には病がちのため出品もなく、その状態が戦後28年までつゞいた。昭和29年第10回日展に「静謐」を出品、第12回展では依嘱出品として「薄暮」を出品した。新日展にも委嘱出品し、「イヤリング」(第1回)、「序ノ舞」(第3回)、「鼓」(第6回)、「応接間の女」(第10回)などがある。昭和44(1969)年日展改組後は出品を止めたが、同48年には「京の百景」(京都府主催)のために「時代祭」を描いている。また昭和26年から29年にわたり東京三越で個展を開催、同42年には悠采会を設立し、京都高島屋で展覧会を開き、10回に及んだ。作品は専ら人物画を描き、ことに美人画を得意とした。主要作に「立華」(第6回帝展、京都市美術館蔵)、「牟礼の義経」(第10回帝展)などがある。 |
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日本画家、日本画府理事池田幸太郎は、8月16日老衰のため東京都世田谷区で死去した。享年81。明治28年(1895)3月28日佐賀郡に生まれ、大正2年佐賀中学卒業後上京し、川端画学校で結城素明の指導を受けた。大正10年東京美術学校日本画科卒業、在学中から同14年頃まで本郷洋画研究所に通い人体デッサンを続けた。同14年帝展に「染井釣堀の図」が初入選し、徳田秋声の推奨を受けるなど、昭和初期にかけて一連の東京風物を描いたが、昭和8年頃から官展出品をやめ、専ら独自の制作活動を行った。この間、外房他に毎年写生に出かけ風景画を多く残したほか、昭和38年には請われて日本画府に所属、理事として同展に出品を続けた。代表作に「咏子の座像」(1921年)「朝市」(1927)「隅田川」(1933)など。 |
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日本画家茨木杉風は、8月12日胃炎のため中野区の自宅で死去した。葬儀は新宿区信濃町の千日谷会堂で新興美術院葬をもって行われた。享年78。本名芳蔵。明治31(1898)年2月8日滋賀県近江八幡市の海産物問屋梅田屋茨木芳蔵の長男として生れ、八幡商業学校を卒業した。大正9(1920)年3月水墨画に新境地を展開した近藤浩一路に師事し、4月太平洋画会研究所に入学した。大正11年第9回院展に「八木節」が初入選し、昭和5(1930)年日本美術院院友となった。翌年2月渡欧し、エジプト、フランス、スペイン、イタリアなどを巡遊し、この年帰国した。昭和12(1937)年、日本美術院院友を辞して、同志10名、(茨木杉風、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、保尊良朔、吉田澄舟、内田青薫、田中案山子、森山麥笑)と、「自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する」目的をもって、あらたに公募団体新興美術院を創立した。以後、同院を主もな発表の場として制作活動をつづけた。戦時中は海軍報導班員として南方に派遣され、海軍記録画「潜水艦の出撃」を制作した。戦後は、戦争のため中絶していた新興美術院を同志8名(旧同人6名に他2名。)で再興、再興新興美術院第1回展を昭和26年6月東京都美術館に開催した。戦後も専らここを舞台に活動をつづけた。代表作に「近江八景」(6曲4双、1943)「南海驟雨」(6曲1双、1944)「しぶき」(4曲1双、1951)などがある。その作品はいづれも写生にもとづく水墨画で、郷里琵琶湖の風景を好んで描いたが、そのほかにも欧洲風物や、京洛風景など幅広く取材され、色彩をほどこした一種粘りのある筆致は、清雅な特有の作風を示した。 |
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日本画家で舞台美術、TVの分野にも活躍した鳥居清忠は、7月13日肺ガンのため神奈川県伊勢原市の東海大附属病院で死去した。享年75。明治33(1900)年11月21日鳥居派七代目宗家の家に生れ、大正3(1914)年立教中学を中退して小堀靹音に師事し、大和絵、有職故実を学んだ。翌年には言人と号し、絵の修業をする傍ら“演芸画報”などの挿絵や、芝居の絵番附などを描いた。大正7年(1918)芝居絵に関連する画だけにあきたらずして、鏑木清方に師事して、美人画を学んだ。昭和4(1929)年には鳥居派八代目を継承し、この頃より“言人版画”という美人画版画を数多く制作した。昭和10年号を清言と改め、専ら作画生活をつづけ、昭和27年美人画「髪」が第8回日展に入選した。昭和16(1941)年父七代目清忠死去により、昭和37(1962)年父の名跡をついで清忠と改名した。鳥居派は、抑揚ある線描、けばけばしい泥絵具、瓢箪のような足の形など独特の様式を具え、歌舞伎の絵看板などとは不離の関係にあって懐しいものだが、清忠のあと後継者がない。清忠のほか、戦争中から昭和45年の春まで歌舞伎の看板は、先代清忠の弟子鳥居忠雅がかいていた。昭和45年忠雅急逝し、清言が再び歌舞伎の看板をかくようになった。なお清忠は昭和41(1966)~47(1972)日本大学芸術学部演劇科の講師をつとめ、舞台美術について教えていた。 |
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日本画家猪田青以は、6月27日食道ガンのため京都市の京都府立病院で死去した。享年70。本名安治郎。明治39(1906)年1月24日京都市に生れ、昭和2年(1927)京都市立絵画専門学校を卒業した。西村五雲に師事し、昭和13(1938)年五雲没後は、山口華楊によって継承された画塾晨鳥社幹部としてあり、官展に出品した。昭和6(1931)年第12回帝展に「閑日」が初入選以来入選を重ね、帝展ではそのほか第13回「晩春」、第14回「軍鶏」、第15回「閑」などの出品がある。新文展では昭和13年(1938)第2回文展「日午」、同15年紀元2600年奉祝展「神苑の花」第6回「闘魂」などがある。戦後の日展では昭和30(1955)年第11回「ウーダン」、第12回「白い花」、第13回「菱」ほかがあり、日春展にも第1回(1966)展「花咲くほてい草」(奨勵賞)ほか数多くの出品がみられ、第3回展「篠」では日春賞となり、第9回「川の畔」では外務省買上げとなった。そのほか関西における関西綜合美術展、日本画審査員、京都府総合日本画展、京展で受賞するなどの活躍がみられ、また川島浩との二人展(1961)、青以素描展(1966)なども開催している。 |
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日本画家白井烟嵓は、1月19日肺ガンのため東京・世田谷の国立大蔵病院で死去した。享年81。本名白井龍。字瀧司。明治27(1894)年2月8日愛知県豊橋市に生れ、二松学舎を卒業した。大正6(1917)年南画家松林桂月に師事し、同9(1920)年第2回帝展に「幽栖」が初入選した。以後も帝展に出品をつづけ、第6回「山靈★雨」、第10回「秋林」、第14回「残★」、第15回「雨」、改組帝展「冰松」などがあり、新文展では第3回雨意」、第5回「松籟」などがある。戦後は日展に出品し、主もな作品として第2回「雨後」、第3回「山峡」、第4回「峡壁飛泉」、第5回「雲行雨施」(特選)があり、第6回では依嘱により「雪暮」を出品した。ついで第7回「蒼然暮色」、第8回「雪峰隔谷深」(白寿賞)、第10回「山湫雨余」、があり第11回「雨岫」以後依嘱出品になる。昭和33(1958)年社団法人日展となってから以後も委嘱出品として、第1回「一鳥不飛天地寒」、第2回「雨亦奇」、第3回「煙山晩鐘」、第4回「山雨将来」、第5回「浄池霜暁」、第6回「飛雪」、第7回「名号池」、第10回「竹林幽趣」、第11回(1968)「松」などの出品がある。またこの間、昭和15(1940)年には日本橋三越に、同32年及び35年には渋谷東横に個展を開催し、同36(1961)年第1回日本南画院出品「秀弧松」は文部大臣賞となった。官展のほか、日本画会、松子社展、日本南画院、後寿会、静賞会、南画院、日月社などにも出品した。画風は写生をもとに、古雅な風趣をもつ。なお青年時代(1918)外海家と養子縁組したが、のちこれを解消(1933)した。したがって帝展出品は外海烟巖とされるが、第14回展以降白井烟巖となり、新文展第3回展より、烟嵓を用いている。又渡辺崋山事蹟関係の功績により、豊橋市文化賞を受賞し、崋山出身地田原町名誉町民となる。 |
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日本画家岡本萬三は、12月29日結腸ガンのため京都市の河端病院で死去した。享年71歳。明治38年1月2日東京日本橋に生れ、はじめ松岡映丘の指導をうけた。その後、京都絵画専門学校を卒業し、池田遙邨画塾青塔社に所属した。主として日展を舞台に、風景画を得意とした。作品に「丹波路の家」(第2回日展)、「薄月夜」(第5回日展)、「山端村風景」(第10回日展)等がある。 |
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日本画家幸田暁治は、11月16日急性肺炎のため京都府立病院で死去した。享年満50歳。本名稔。大正14年10月27日京都市に生れ、京都市立美術工芸学校絵画科を経て、絵画専門学校を卒業した。昭和30年池田遙邨の画塾青塔社に入塾したが、同48年からは無所属となり、個展活動に入った。同氏は幼年期より病弱で、それが後年まで影響をのこし、戦後も闘病生活と、カソリック信仰の中での制作がつづけられた。作品は、昭和31年日展「鳶」が初入選以来同47年まで10数回入選し、また京展、日春展、青塔社展等でしばしば受賞している。そのほか多くの会での活躍がみられるが、昭和46年第1回山種美術館賞展では「収穫」が推選となっている。作品は、童女を中心とする人物画ユートピアの風景、擬人風な花、動物を通じて心象的日本画の新しい内面を探求する。 |
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日本画家郷倉千靭は、10月25日急性心不全のため、世田谷区の病院で死去した。享年83歳。本名与作。明治25年3月3日富山県射水郡に生れ、同43年富山県立工芸高校を卒業した。大正4年東京美術学校日本画科を卒業、翌5年アメリカに1年半留学した。大正9年第2回帝国美術院展に「雑草の丘」が初入選し、翌年日本美術院第8回展に「地上の春」が同展の初入選となった。同13年には日本美術院同人に推挙された。昭和7年帝国美術学校日本画教授、同11年多摩美術学校日本画教授となり、同41年まで同校の指導にあたった。昭和24年日展審査員となり、同35年第44回院展出品作「山霧」で日本芸術院賞を受賞、同47年には日本芸術院会員となった。また昭和35年印度に旅行し、京都東本願寺、大阪四天王寺壁画など、仏教美術も描いている。作品は、初めに後期印象派に憧れたが、のち日本の古典に傾倒、新しい日本画様式の創造に腐心する。穏健な中庸を得た写実を基盤に、洋風感覚味を大幅にとり入れ、氏独自のモダニズムを漂わす。 略年譜 |
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日本画家小島丹漾は、9月27日脳血センのため、新潟市内の医療法人「佐潟荘」で死去した。享年73歳。 |
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日本画家堂本印象(本名三之助)は、9月5日午前1時38分心不全のため、京都第二赤十字病院で死去した。享年84歳。葬儀は、7日自宅において密葬、16日堂本美術館で本葬が行われ、25日には京都会館で京都市公葬が営まれた。印象は、明治24年12月25日京都市に生れた。父は伍兵衛、母は芳子で、生家は銘酒「賞菊」の醸造元として知られる酒造業であったが、父の代に事業に失敗して没落した。9人兄弟の三男であった印象は、苦学して画道に入り、大正10年京都市立絵画専門学校を卒業した。この間、西山翠嶂の塾にも学び在学中の大正8年第1回帝展に「深草」が初入選した。同じく第3回「調鞠図(ちょうきくず)」、「訶梨帝母(かりていも)」がともに特選になった。また大正14年には「華厳」で、帝国美術院賞を受けるなど、若い頃からすぐれた才能が認められた。その後、帝展、文展、日展等官展の審査員をしばしばつとめ、昭和25年には日本芸術院会員となった。同36年文化勲章、38年にはローマ法皇からサン・シルベストロ騎士勲章を、74年にはバチカンの近代美術館に「母と子」を納めて、サン・シルベストロ十字勲章を受章した。またこの間、昭和9年には画塾東丘社を創立して、これを主宰し、京都絵専教授をつとめるなど、多くの後進育成にもあたっている。なお、パリ、ニューヨーク、トリノ等で個展を開いている。昭和41年には、京都衣笠山の麓に「堂本美術館」を建設し自作を陳列、話題となった。作品は、極めて多作といえるが、それらを概観すると、初期における古典的題材による、文学性ゆたかな絵画は、戦後大きな変貌を示し、現実生活に取材した洋画的表現の濃いものとなり、さらに昭和33年ごろからは抽象的画面を展開するようになる。また絵画以外でも彫刻、ガラス工芸、染色、陶芸、金工などのほか、堂本美術館における建築までも手がける多才ぶりであった。このような多様な変貌ぶりは、一部に批判的眼もないわけではなかった。しかし、近代の日本画家としては、その旺盛な制作活動は卓抜で、瞠目すべきものがあった。 |
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日本画家不動立山は、8月14日京都市の自宅で老衰のため死去した。享年89歳。本名定一。明治19年4月18日兵庫県三原郡の農家の次男として生れた。同34年上洛し、京都市立美術工芸学校に入学し、38年に卒業した。40年に1年志願兵として合格、陸軍歩兵軍曹となった。また41年から翌42年にかけて神戸市小学校訓導として教鞭をとった。さらに京都市立絵画専門学校の開校により、ここに学び明治45年第2回の卒業生となった。また大正10年には西山翠嶂に師事し、青甲社の創立に参画している。作品は、最初第6回文展に「冬の夜更」「春雨の夕」が初入選し、ついで第11回に「献燈」(六曲一双)を出品した。帝展には多くの作品を発表し、つぎのような作品がみられる。即ち、第3回「古陵」、第4回「朝雨のあと」、第5回「貴船路の秋」、第7回「遠雷」、第8回「みのる秋」、第9回「観音堂」、第11回「夕立」、第12回「余燼」、第13回「夏時雨」、第14回「放牧」、第15回「曾根沼」等で、新文展では第2回展に「劫火」、3回に「春月」があり、いづれも無鑑査出品である。昭和17年戦時下疎開のため淡路島に転居し、戦後昭和48年までこの地に滞留していたが昭和48年9月には京都の自宅に戻っている。作品は京都的肌目細かな画風の中に、近代的感覚を導入させたものだが、新文展出品作「劫火」などには、意慾的で逞ましいものがみららた。 |
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日本画家矢野鉄山は、3月31日急性心機能不全のため大阪府茨木市の病院で死去した。享年81歳。本名民雄。明治27年2月5日愛媛県今治市に生れ、18歳の年上京し小室翠雲に師事した。24歳で大阪に移住し、大阪美術学校に入学、またこの年第2回帝展に「春靄・松壑」(対幅)が初入選している。翌大正10年日本南画院に「穣媚・霜晨」を出品、1等となり同人に推され、以後16年間同人として出品した。昭和12年乾坤社を興して展覧会を開催、5回展を迎えたが戦争のため中止するに至る。帝展はその後、昭和4年第10回「孤琴涓潔」、同8年第14回展に「荒凉」が特選となり、昭和18年第6回文展では審査員となった。また戦後昭和43年全日本水墨画協会を設立、同46年新しい水墨画の発展に尽くした功績によって、紫綬褒章を受章した。その他、日展会員でもあり、審査員もつとめた。作品は東洋独自の水墨画を現代に発展させたもので、作品は上記のほか「晴れ行く驟雨」「長江万里」「韓非子」「蘇秦張儀」などがある。 |
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創画会に出品していた日本画家、三橋節子は、2月24日午前0時40分、転移性肺腫瘍のため京都府立病院で死去した。享年35歳。三橋節子は、昭和14年(1939)3月3日、大阪・パルナバ病院に生まれる。当時から両親の住居は京都市で京都で育っている。父三橋時雄、母珠の2男2女の長女として生まれ、母珠の従兄弟に長谷川海太郎(小説家林不忘、または牧逸馬)、長谷川潾二郎(画家)、長谷川四郎(小説家)などがいた。北白川小学校、近衛中学校をへて昭和29年鴨沂高校を卒業、同年京都市立美術大学日本画科(現・京都市立芸術大学)に入学、主として秋野不矩に師事した。昭和36年(1961)同大学を卒業したが、その前年の35年の新制作春季展に「立裸婦」が入選、同年24回新制作展に「立像」が入選となった。以後、新制作展日本画部(のち創画会展)、京都日本画総合展などに出品し、昭和40、42、44の新制作春季展で受賞、昭和42年末から45年初めにかけて京都美大同窓会美術教育研究会主催の旅行団に参加してインド、カンボジアに旅行し、昭和43年11月、同じ新制作展出品作家で陶芸家の鈴木靖将と結婚し大津市に新居をもった。昭和44年、第33回新制作展に出品した「カルカッタの少年達」「ベナレスの物売り」で新作家賞をうけ、さらに、昭和46年第35回新制作展では「土の香」「炎の樹」で2回目の新作家賞を受賞した。昭和48年(1973)「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため京大病院に入院して右腕切断の手術をうけ、以後は左手で制作、昭和49年滋賀県展に出品され「花折峠」で滋賀県芸術祭賞をうけ、同50年京都日本画総合展出品「余呉の天女」(絶筆)は京都府買上げとなった。 |
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日本画家平野長彦は、2月13日心臓マヒのため大阪市の自宅で死去した。享年71歳。矢野知道人に師事し、帝展、新文展等に作品を出品し、戦後は日展に発表した。風景や、仏画に独自の南画を描き、昭和30年大阪美術協会が発足してからは、その理事をつとめた。 |
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日本画家寺島紫明は、1月13日脳出血のため西宮市の自宅で死去した。享年78歳。本名徳重。明治25年11月18日明石市に生れた。木綿問屋、柿屋を営む父徳松、母としの長男で、6歳と2歳年上の姉の三人姉弟であった。明治32年明石尋常高等小学校に入り、この頃からスケッチを好み、源氏物語など日本文学に親しむ。小学校卒業後はさらに文学への傾倒を深め、寺島玉簾のペンネームで「少年倶楽部」「兄弟姉妹」等の雑誌に応募し、入賞を重ねた。明治42年17歳の時、長姉の嫁ぎ先である大坂の木綿問屋丹波屋、三浦家に見習奉公に入る。この年10月父を失い、翌43年上京した。大正元年8月母にも死別し、この頃から文学を離れ画家を志し、翌大正2年鏑木清方に師事した。翌年「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)が入選し、三等賞となった。昭和2年第8回帝展に「夕なぎ」が初入選し、その後官展への出品を毎年続けた。戦後も、第2回展以来日展出品をつづけ、没する数年前の昭和46年までの出品がみられる。官展以外では、巽画会のほか青衿会、日月社、創造美術(第1回展)、兵庫県選抜展などがある。またそのほか街の展観としては、初期の郷土会をはじめ、昭和になってからは九皐会、清流会、尚美会、綵尚会、明美会等に出品している。美人を対象に描いたいわゆる美人画は、江戸浮世絵以来近代に至って多様な発展を示すに至っている。浮世絵の系統をひく鏑木清方は、江戸から東京を舞台に東京人の好みに投じた粋人柄な女性を描いて独自な美人画を展開した。玄人の粋に堕さず、素人の野暮に偏さないこの洗練された一つの女性像は、東京人における女性の典型であった。 |
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日本画家金島桂華は、9月16日肝性こん睡のため京都市の病院で死去した。享年82歳。本名政太。明治25年6月25日広島県に生れた。少年の頃、大阪に出て絵を学び、19才で竹内栖鳳の門に入った。大正元年入営し、軍隊生活2年を送った。大正7年第12回文展で「叢」が初入選し、同14年第6回帝展「芥子」、昭和2年第8回帝展「鳴九皐」翌第9回「牡丹」で特選となり、第15回帝展では、「紅蜀葵」を出品し、審査員をつとめた。また同12年には京都美術工芸学校教員となり、昭和17年第5回新文展では「大威徳明王」を無鑑査出品した。戦後は、日展でしばしば審査員をつとめ、27年第8回日展「鯉」は、芸術選奨文部大臣賞となった。また29年には前年の第9回日展出品作「冬田」で日本芸術院賞となり、34年同院会員となった。昭和46年東京、大阪の三越で「画業六十年金島桂華展」を開催している。桂華は、制作の一方、後進の育成にもあたり、画塾衣笠会を主宰した。作品は花鳥画が多く、師栖鳳の傾向を受け写実を基盤とし、真面目で穏健な作風を示した。おもな作品として、上記のほか「画室の客」(第10回日展)、「野牛」(第1回新日展)等がある。日展顧問。 |
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日本画家奥村厚一は、肝臓疾患のため6月25日京大病院で死去した。享年69歳。明治37年7月1日京都市に生れ、昭和3年京都市立絵画専門学校を卒業、同8年研究科を卒えた。この年西村五雲に師事した。戦前は、帝点、新文展等官展をおもな発表の場としたが、戦後はこれを離れ、昭和23年創造美術の結成に参加し、新制作協会々員、創画会々員等新しい傾向の団体に所属し活躍した。帝展でのおもな作品に「山林」(10回)、「深社の河原」(11回)、「松林の秋」(13回)、「松蔭雨日」(15回)等があり、文展では昭和11年改組第1回帝展に「雨後に立つ雲」、同年鑑査展「雪の音」、同12年第1回新文展「落葉の秋」、第2回「月光」、第5回「林道」、等がある。戦後第2回日展出品の「浄晨」で特選となったが、23年日展を脱した。風景画を得意とし、山をテーマにした作品が知られるが、晩年は水墨調の画風を展開した。代表作「浄晨」「黒潮」「大洋」など。昭和35年京都市立美大教授同45年京都市立芸大定年退職。46年嵯峨美術短大教授。49年京都市立芸大名誉教授。 |